始皇帝が作りあげた強大な秦帝国から900年ほど経過した唐王朝に、またもや冬虫夏草が歴史にクローズアップされました。その主役は、世界の三大美女と称される楊貴妃です。
楊貴妃の実名は楊玉環、蜀国の平民の娘として生を受けましたが、幼いときに両親と死別して、叔父の家に引き取られて育ちました。ある時、西征する唐王朝の皇太子・寿王に見初められて皇太子妃となったのですが、その美しき皇太子妃に目をつけたのが寿王の父親である第6代皇帝の玄宗です。
玄宗といえば開元の治と呼ばれる善政で唐王朝の絶頂期を迎えたほどの名君で、絶対的な権力者だったのですが、楊玉環を見初めてから強引に寿王との別離を企て、彼女を道教寺院に入れて尼僧にしてしまいました。この時、玄宗は60歳、楊玉環は24歳。
1年余の時をおいて、玄宗は楊玉環を宮廷に呼び戻して正式に貴妃(おきさき)としたまではまだ良かったのですが、その寵愛ぶりが度を過ぎて、次第に国力は衰えてゆきます。
楊貴妃につながる親族を次々と政権の要職に据え、そればかりか、政治の場にも顔を見せなくなった玄宗に愛想を尽かした古来の部下が次々と離れてゆき、世は乱れて安史の乱を招くこととなったのです。
こうして玄宗と楊貴妃は蜀国に落ちて行くのですが、その途中で部下たちに争乱の責任を問われた楊貴妃は、玄宗の命令によって処刑されたのでした。
この史実は旧唐書に、そして玄宗と楊貴妃の悲恋をテーマにした白楽天の長恨歌に残されて今でも語り継がれているのですが、ここで問題なのは玄宗と道教の絡みです。
若い頃(西暦720年頃)の玄宗はむしろ仏教に傾倒していたことが、仏教僧への「度牒」という政策から判断できます。これは、道教だけでなく国家政府が仏教の僧尼にも身分証を与えるという制度で、迫害されていた仏教が厚遇される端緒となりました。
その後、西暦734年に玄宗は楊貴妃と出会っていますが、この頃より玄宗は道教に改宗して深く信仰するようになりました。彼女を道教寺院に入れることから始まり、自らは宮廷に修道院を作って天台山(浙江省の霊山)から高名な司馬承禎という仙人を招き入れ、道士になるための修練を重ねたといいます。このことは「御極多年にして長生軽挙の術を尚とぶ」と旧唐書にも記されるように、永遠の生を受けること、そして自らが仙人の列に加わりたいという道教思想に入れあげた証左です。
道教といえば、前述のように仙草や仙芝を祭壇に祀って不老長生を祈るという習慣がありますから、永遠の生を受けたい玄宗も永遠の美に授かりたい楊貴妃も、冬虫夏草を重用したであろうことは簡単に想像できます。これが後世に、楊貴妃は冬虫夏草を愛したと語られるようになった所以ですが、実際には、玄宗を道教の世界に引きずり込んで夢中にさせたのも楊貴妃かもしれません。茘枝(ライチ:木の実)や阿膠(アキョウ:ロバの皮下コラーゲン)を好んだという説もありますが、むしろ日夜、玄宗とともに祭壇に向かって祈りを献げる楊貴妃の妖艶な姿や、その後に大自然の恩恵に与ろうとして祭壇の仙草や仙芝を料理させて、二人して食す姿の方が目に浮かびます。 |