暗闇に輝いた黄金の光|中国編 |
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3年間で2度の大きな挫折 |
祖父・川浪武次がしるした武勇 |
川浪一族と中国の縁は深い。 川浪の祖父・武次は有田焼で有名な佐賀県有田町に生まれ育ち、日露戦争の終結と同時に中国・大連に渡って不動産開発の事業を始めたという。満州国が建国されると、多くの日本人が満州に渡ってきて、祖父が建てたという居宅を買って住み始めたらしい。 その祖父は、親父が誕生した5年後の大正8年に落命したそうだが、何処で亡くなったのか死因が何かも分からず、誰も亡骸や遺品を見てないという。 ただ言えるのは、ただ者ではなかったということである。 というのも、親父が産まれて日本に引き揚げるまでの30数年、祖父に伴って中国・大連に渡ったとされる従兄弟の川浪勝一が、毎年のように満州紙幣が詰まった桑折箱(こうり)を何箱も馬車に積んで届けに来たからである。 そのお陰もあって、親父たちは大連市からおよそ200キロほど北に上った海城県(海城市の旧称)で広大な家に住み、さらに鞍山市にも通学用の別邸を持って、使用人を5~6人も置いて何不自由なく暮らしていたという。 親父の生家は遼寧省のど真ん中、大石橋(ダァシィチャオ)満鉄駅から馬車に乗り換えて北に1時間ほど駆けた街だという。現在の海城市中小鎮付近だと思われるが、居宅のすぐ近くには関東軍(満州に侵攻した旧日本軍)に爆殺された張作霖(チャンソリン)の生家があったと、子供の頃に何度となく耳にしたことがある。 張作霖は、海城県の貧農の子として産まれたそうだ。若い頃から馬賊になって暴れまわり、次第に頭角を現して海城を牛耳るまでに力を付け、やがて黒竜江省・吉林省・遼寧省を含めた東三省全域を勢力下におき、関東軍の後ろ盾を得て東三省総督に就任した猛者である。 張作霖一派は、祖父・武次が亡くなったとされる1919年に山海関(満中国境の砦)を越えて中国北部にも勢力を伸ばし、その後に、中華民国北京政府が張作霖を大元帥に奉りあげるなど大出世を果たし、自らを「中華民国の総督」と宣言するほどに権力を振るった。 これに対抗していた国民革命軍の蔣介石が北伐を開始し、戦いに敗れた張作霖は北京を脱出して故郷の遼寧省に戻るのだが、瀋陽駅近くの鉄橋に差しかかったときに列車が爆破され、落命したという。 その生き様から、中国国民の間では「国を盗もうとした大悪党」という好ましくない称号が付されている。 当時、間近で歴史に接してきた祖母・コトメは張作霖を悪くは言わず、祖父のことは「あん人は、よう馬賊討伐に出かけよった。日本刀と拳銃を腰に提げて使用人らを引き連れてのう・・」と光を失った眼に溢れんばかりの涙を溜めながら、腹立たしそうに話してくれた。 川浪武次と張作霖は、家が近所で年齢も近いことから、連れだって国盗りの夢を追っかけた仲間なのかも、と思ったこともあった。 母親の父は、広島県警察隊可部署の青年幹部だったようである。ロシア国境に入植する日本の武装移民団を警護する任を負って、黒竜江省佳木斯(チャムス)の副街長として赴任したが、終戦と同時に南下を始めたロシア軍の楯となって入植者を逃がし、その後に捕まって銃殺されたと記録に残る。しかし、先に逃げたはずの祖母や母親の兄弟たち4人は、生死すら確認できていない。 川浪の父母は、終戦を哈爾浜(ハルピン)で迎えたという。怒涛の如く押し寄せるロシア軍と復讐を叫ぶ中国人群衆から逃れようと、雇用していた中国人を居宅に住まわせ、その地下室に避難して1年余が過ぎた凍れる嵐の中を、彼らが操る荷馬車の積み荷に隠れるようにしながら、日本への引き揚げ船が出る葫蘆(ころ)島まで辿り着いたそうだ。 日本人狩りをするロシア軍の検査を何度もくぐり抜けながら、その都度、劉さんたち使用人が身を挺して護ってくれたと、当時の恐怖と感謝の想いを何度となく回想していた。 このように川浪一族と中国人は切っても切れない、深くて強いしがらみで結ばれていたのである。 そんな川浪が中国共産党に招かれたのは、台湾大地震をさかのぼる2年前の97年6月20日で、その日は忘れもしない48歳の誕生日だった。 「中国食用菌協会で食用菌(キノコ)の世界探訪について、講演をお願いしたい」とのオファーが党幹部から寄せられて、祖先の亡霊たちに強く引かれる思いで中国の土を踏んだ。 地方政府幹部、共産党幹部、食用菌(きのこ)学者、培養技術者らで構成する中国食用菌協会員約300人が、河南省必陽(ビーヤン)に集結するなか、川浪は「過疎地を再生する薬膳食用菌」をテーマに講演。 まずまず出席者の興味を引いたのだろうか、翌年の沈陽市の講演会でも講演することになり、協会幹部の間では著名人になって、各地に朋友が出来た。 内蒙古政府や河南省政府からもたびたび招聘(政府がらみの招待)が入ってきて、川浪が訪てゆくと政府も党の幹部も喜んでくれて、昼は市長が、夜は党の書記さんが主宰した宴会を催してくれた。 接待は超VIP扱いで、昼も夜も豪華料理三段重ね(回転テーブルに料理皿が並び、その皿と皿の上に二段目の料理が、またその上に三段目の料理が重ねられる、もっとも豪華な設営)の宴会を催し、五粮液(ウゥリャンイ)という最高級白酒(バイチュウ)の乾杯を、繰り返し繰り返し重ねた。 こうして培った川浪と地方政府の幹部たちとは堅い信頼で結ばれ、いざビジネスが始まると、彼らがパートナーとして合作(事業協力)をしてくれることになっていた。 台湾も中国も日本でも、キノコの将来を信じる企業や朋友たちが、川浪の提唱する「大きのこ村構想」の実現に向けて、次々とスタートを切ってくれたといっても過言ではなかった。 極寒地で暖房不要の椎茸栽培 これからは阿里山~日本~大連の往来がより頻繁になるだろうと考えて、日本にオフィスを設けたのは99年夏の頃だった。 台湾大地震が勃発する1ヶ月ほど前だったか、福岡空港至近のマンションの一角に、会議用の長机と椅子8個、電話FAX兼用機、それと、奥の部屋には急な時に宿泊できるようにパイプベッドを用意し、ゆくゆくは事務員も必要になるし、事務用品や生活備品も揃えてゆかねばならないなと、大きな夢を描いていた。 そして輝かしき日本事務所の門出からわずか1ヶ月後に、悪夢の台湾大地震が勃発して、ビジネスも夢も希望も朋友も、虎の子の資金までも失って、身も心もズタズタになった男が舞い戻ってきた。 これから、何をしてゆけばよいのか・・ 長机を前にして茫然としていると、突然と目の前に置いていたFAX機がカタカタと軽い音を立て始め、書き殴ったような荒っぽい字が見えた。送信者は、親父が生まれ育ったという大石橋市にほど近い、海城中小鎮政府の通訳代理人を務める曹彦楓である。 「お兄ちゃんへ、全人代(日本の国会にあたる)の政策の一環として過疎地振興にキノコ事業を取り入れるそうです。是非とも海城の政策顧問として指導してください。至急のお越しを待ってます。大連空港に迎えに行きます」 あまりにも偶然、まるで何処かで台湾の大崩壊を眺めていたのように。 たった今、台湾から帰ってきたばかりの絶妙すぎるタイミングである。 運命が動いた、と心の底に突き上げるものを感じた。 遼寧省海城市は大連から北に約200キロ、人口100万人足らずの街である。何のご縁か、この政府の青年幹部たちとはとくに親しく交流し、幾度となく盃を酌み交わしていた。 中小鎮政府(日本でいえば区役所)の建物は親父が産まれた家の近くだという安心感もあるような、何か懐かしい匂いのするような、何か心が沸き立つような想いも重なっていた。 断る理由など、有るわけもない。 川浪は勇躍、中国に向かうことにした。 海城市といえば緯度では日本の青森市に匹敵する寒冷地である。ここでキノコ栽培を振興しようとするには、低温冷気に耐えられる品種を選択せねばならない。 川浪が、広大な大自然と向き合いながら取り組もうとしたのが冷暖房不要のシイタケ菌の研究開発である。シイタケ栽培の場合、通常であれば20~25℃でなければ発芽しない。したがって海城市の場合は、真夏を避けて夏の終わりから秋にかけて収穫するのがよいのだが、9月中旬になると暖房を焚かないと育たなくなる。 暖房をかけると設備が貧弱だから良いシイタケが採れないし収穫量も激減することで、地域産業には向き難い。 しかしこの寒冷地では穀物も野菜も育たないから、発想の転換をしなければならない。 「中国は広い。内陸部や北部の自然界には、凍てついた氷を突き破って発芽するようなシイタケ菌種もあるはずだ。そんな菌を採取して寒冷状態で菌床をつくり菌糸を育てていれば、凍える寒さの中でも暖房なしでシイタケ栽培が可能になるだろう。 そんな極寒の菌種を、食用菌協会で培った朋友たちに頼んで探してもらおう」と考えた。 早々と、河南省内陸部の政府機関の劉副県長さんから連絡が入ってきた。 「私の政府では原木栽培に力を入れています。今年の冬には500万本ほどの榾木を用意するので、その中で寒中発芽のシイタケは見つかりますよ。私の方で採取して培養してあげます」という。 早速、以前から乾杯を繰り返していた仲間たちとの合作が始まった。 このシイタケ菌を使えば極寒の冬場に菌糸育成しておいて、春から秋にかけて発生させることができる。この時期に生シイタケを日本に輸出すれば、日本はちょうどシイタケが採れない時期(不需要期)にあたるから、青果市場は歓迎してくれるはず。 そして日本でシイタケが採れる秋になると、こちらでは最盛期を過ぎていて小さな粒しか発芽しない。この小粒は茶碗蒸しなどに入れる乾シイタケに向ければよい。 遼寧省・吉林省・黒竜江省・内蒙古という寒冷地4省の過疎地に、この耐寒シイタケ菌を普及して花どんこ(大分県シイタケで有名)を栽培して日本へ輸出。 乾シイタケは大連周水子空港、さらには瀋陽桃仙国際空港からほど近い場所に国際市場を開設して、日本をはじめ台湾、香港、シンガポールなどから訪れる華僑バイヤーに販売するという壮大なビジネスを、川浪は立案していたのである。 トウモロコシの生産に陰りが見えてきた寒冷過疎地の農民経済復旧はこの手しかないと、党の幹部たちも着目してくれた大構想が一挙に具体化できるのである。 着任から数日後には海城政府が「大きのこ村構想」の事業化を決定して、大きな予算を投じることとなった。 哈爾浜(ハルピン)に向かう高速道路ICを下りてすぐ右の広大な用地に216万菌床を収める栽培ハウスを建てて、いよいよプロジェクトの第1幕が切って落とされた。 プロジェクトを日本にPRすると日本農業新聞が大々的に報じてくれて、それをきっかけに商社、食品流通業者などが続々と視察に訪れることとなった。川浪はツアーを組んで、これに対応することになる。 「中国遼寧省キノコ村商談ツアー、3泊4日。参加費1人15万円」と銘打って、往復航空券(羽田・関空・福岡発着)、中国4つ星級ホテル宿泊、豪華海鮮料理など全食事付、一流カラオケクラブ2夜豪遊、移動は政府要人クラスの送迎に使う超高級マイクロバス、などなど全てを含んでこの価格である。 その内の航空券往復は川浪が分担し、中国における宴会費とホテル代は地方政府が負担してくれる取り決めをしていた。 中国大連を訪れる日本人旅行者が少なかった頃である。豪華すぎるツアーとの噂が噂を呼んで、社長レベルの申込みが殺到。毎週20~30人が参加するなど盛況で、マイクロバス1台では間に合わない時期もあった。 航空券(中国国際航空)を団体購入すれば5万円余、その他もろもろの出費を差し引いても8万円近くが川浪のフトコロに残った。その上に、プロジェクトへの出資を希望する企業や個人を合わせて、わずか1年足らずで8000万円余の軍資金が集まったのである。 これを資本に、現地の政府幹部と合弁合作(事業のパートナーとして資金を出し合う)公司を設立して、シイタケ商品加工場に日本の技術を導入するヤードを設備すれば出荷準備が完了するという道筋が明確に見えてきた。 大連に進出して1年になる2000年9月、これらの事業と輸出を一手に担う川浪独資の公司を設立する運びとなった。 大連空港から大連市街地に入り、黄河路を進んで新開路と交差する場所に、珠江国際大厦がそびえる。そのビルの一角、808号室に大連渓流国際貿易有限公司を設立して、同時に、海城市には海城渓流国際貿易有限公司を設立。どちらの公司も川浪が董事長総経理(代表取締役社長)に就任。 日本、さらには世界に向けた本格的な歩みを開始したのである。 プロジェクトがスタートして18ヶ月、02年4月16日。計画どおりに収穫が始まり、春祭と間違うほど多くの農民たちが集まって選別し、トレー盛りつけパック作業が始まった。最新鋭の日本製全自働パック機2台が高速でうなり、次々と生シイタケをパック包装してゆく。 これから150日の間、全216万菌床から約650万パック(200g/パック)の商品ができる。しかも日本にシイタケが採れなくなる夏の季節。この品質なら、日本の厳しい要求にも充分に対応できるはず。 大成功だ、危惧することは何もない。 そして記念すべき、第1船。 大連貿易港を見下ろす高台に集合した川浪と政府幹部たちは、どんこシイタケ6万パックを積載したコンテナ船が福岡県門司港に向けて出航するのを見送った。 低く太い汽笛を鳴らし、茜色の夕陽を浴びながらブゥハイ(渤海)の水平線に消えてゆく船を、暗くなるのも忘れて眺めていた。 これから、日本産シイタケの収穫が始まる10月までの5か月間、毎日3コンテナもの花どんこをパック包装して出荷する。 夏の暑い時期に、肉厚の「どんこシイタケ」なんて見たことも食べたこともない日本の人たち。しかも、極寒地のクヌギをチップにして発生させるのだから、弾力性と豊かな芳香、グアニュール酸がたっぷり詰まった極上の味覚である。 日本で人気が高まることは間違いない。しかもこのシイタケは絶体に他社では真似が出来ない、オリジナル菌種である。 「夏期のシイタケ市場は俺が握った」と水平線に消えた船を目で追いながら、満足の笑みを浮かべた。 その時には頭の中に、親父と交わした約束のことも冬虫夏草のことも、まるで存在していなかったのである。 |
冬虫夏草はやはり神秘だった |
中国きのこ村プロジェクトの夢を打ち砕いた、あのシイタケ・セーフガード。 参議院選挙の票集めのために中国を標的にした貿易規制だったはずだが、とんでもない結末に終わっている。 中国が、すぐさま報復セーフガードを撃ってきたのだ。日本が規制したネギ・シイタケ・畳表に対して、中国の規制は自動車・携帯電話・エアコンという三品目、しかも日本を代表する企業を支えるアイテムを対象にしたものだ。 報復セーフガードは日本に遅れること2ヶ月、眼にもとまらぬ速さで実現した。 自動車大手・電気大手企業が苦情を訴える中、経団連も強く政府に抗議する。 「ネギやシイタケなど安価なものを規制して、高額な品目に対して報復されるとは、なんと馬鹿げたことを」と、日本国内では非難が渦巻いた。 中国のセーフガードが施行されて約半年、日本政府は、武部農林大臣と平沼通産大臣を特使として中国に派遣して日中貿易交渉を始めた。 川浪はその当日、人民路の突き当たりに位置する港湾広場にいた。 新東方餐館は大連随一の広大なホールを持った大衆レストランである。ホールの四隅に配置された大型テレビでは貿易交渉の様子が放映されており、中国人客でごったがえしていた。 午後5時すぎ、二人の大臣が立ち上がりテーブルに手をついて額をこすりつけるくらいに深々とお辞儀をしているではないか。日本政府高官の陳謝によって、セーフガードが解決した一瞬だった。 テレビに釘付けだった観衆から、同時にウオーという歓喜の声が上がった。 何処からともなく、ビールの大宴会が始まった。 「シャオリーベン、ダーチォングォ」カンペイとともに繰り返される「小日本、大中国」の歓声が何度も何度もホールを揺るがした。 それ以来、日本人と中国人のパワーバランスが変わった。道を歩いていて対面すると、今まで道を譲ってくれてた中国人が道を譲らなくなって、日本人が道を譲らなければならなくなったことである。 セーフガード、それは日本人にとって、いったい何だったのか・・ 日本の経済力と中国の知力の分岐点を、川浪ははっきりと見届けた。 中国きのこ村プロジェクトの後始末が終わってすぐに、有り金をはたいて、大連空港からほど近い甘井子区山東路の裏通りに建つマンションの地下一階に研究室を設けることにした。 そこは以前、レストランが営業していて、その後を引き継いだ研究室だった。 来る日も来る日も、いろんな昆虫に冬虫夏草の組織を植えつける試験を繰り返すのだが、自然界のものとどこがどう違うのか、何が悪いのか、髪の毛のように細い子実体がチョロチョロと伸びるものの、自然のさ中で見つけたあのプリプリした元気いっぱいの冬虫夏草は出現しない。 こんなんでは、台湾の頃の研究と変わらない。自分が食べてみたいと思うような冬虫夏草は確保できないし、こんなんでは日本でやろうとしている大規模栽培なんて、夢のまた夢である。 またまた挫折感に襲われて「やはり神秘は神秘なんだ。カップの中で栽培するというのは無理なのか」と諦めがよぎって、次第に頭脳の構造が緩んでいった。 昼間から珠江国際大厦1階の「肥牛しゃぶしゃぶ」で、青唐辛子の腌制緑辣椒(ピクルス)をつまみながら生ビールを煽り、部屋に帰って少し眠ると、夜は夜で人民路の海橋大酒店の2階にオープンした日本料理店「大江戸」に行って、醤油辛い「きんぴらゴボウ」を肴に、内モンゴルで蒸留したという焼酎を煽る生活が続いた。 夢敗れ、挫折を目前にした男の孤独な闘い。不満と不安が交錯して、不眠症が高じていた。 酔った勢いで一気に寝るのだが、ものの2~3時間もすると目覚めてしまう。そうすると、中医から「破裂寸前」と警告されていた胆嚢結石が疼いて朝まで眠れない。 他にも、様々な病根があった。 頭と首の付け根にある神経鞘の炎症が原因といわれた激しい偏頭痛、血圧の上が180、下も100を越えて驚くことに心拍数が平常時でも毎分120に達した。黒かった頭髪が抜け落ちて白髪が進み、乱視がすすんで文字が見えない。鼻詰まりで寝られないからといって、まとめ買いしたルル点鼻薬を1週間に1本。さらに、胃が灼けるといっては太田胃散を毎食後、2匙3匙。 便秘と下痢の繰り返し、脚が抜けるほど痛む座骨神経痛に夜な夜な苦しんで、マンション近くの按摩店で癒してもらう。 季節の変わり目には、必ずといってよいほど大風邪をこじらせて、39度超えの高熱と激しい気管支喘息に苦しんだ。 そして最も厄介だったのが、漢方医が瘡(そう)と呼ぶ難病である。 ゴルフボールほどの血膿の塊が顔面や耳たぶや脇下などに吹きだして、次第に体内へと移ってゆき腹膜や胸膜にも転移するという難病である。内臓に病根があるというこの病気は、切っても切っても直ぐに体のどこかで血膿が膨らむという。 後のテレビドラマで高い視聴率を上げた韓国薬膳ドラマ「チャングムの誓い」で朝鮮李王がこの病にかかり、チャングムに冬虫夏草を見つけさせたのだが、時はすでに手遅れ。衰弱して他界するというストーリーが見どころだったあの病気である。 そんな病魔が川浪の体内にもフツフツと芽生えていて、その度に「いつかは大手術になるんだろうな」と思いつつ、取り敢えず眼前の血嚢を取るべく、冷たい手術台にのぼって切開してもらっていた。 そして最大のピンチが訪れた、あれは2月になったばかりの寒い朝のこと。 朝食に立ち寄った快餐店(ファーストフード)入口の階段で、突然と、身体が反り返るほどの激しい目眩(めまい)に襲われた。 凍てついた石の階段に激しく頭から突っ込んだ川浪は、遠のいてゆく意識の中で「頭を打ったよ、お父さん、死なないで」と慌てふためく社員の叫び声を聞いた。 「死ぬのか?」 痛さも冷たさも感じなかった、ただ頭の芯に強い痺れを感じながら、ゆっくりと暗い谷底に落ちていった。 目が覚めたのは、3~4時間後という夕方が近い頃だった。 階段で打った頭の傷よりも、首の捻挫の方が激しく痛んでいた。しかし不幸中の幸いというか、中医からは脳内出血も頭蓋骨の挫傷も頸骨の損傷もなく「脳震とう、腎虚が原因の目眩(めまい)」だと診断されたという。 腎虚とは、腎臓の栄養が欠乏することから起こる体調不良だといわれている。 亜鉛、鉄分などのミネラル摂取、そして安静が一番とアドバイスを受けたが、ここで寝てても身体が良くなるわけではないし冬虫夏草も上手くは育ってはくれない。 春節が明ければ氷も緩んで、春の陽気とともに冬虫夏草の菌糸にも勢いが戻ってくる。何とか頑張って体力と気力を回復させなければ、そして今度こそ成功させなければ、もう後がない。 次の寒い冬が訪れると、成功がまた1年延びてしまう。だから、仕事になるのは残すところあと半年。それから先は資金も底をついてしまうし、この体では再起も望めない。 川浪の頭の中には「大陸乞食」という4文字が大きく浮かんでは消えた。 この言葉は、チャイニーズ・ドリームを夢見て中国に進出して、失敗に失敗を重ねながら広い中国を彷徨う外国人浮浪者(中国人から見た)のことである。心の中では「この地で果てるのは川浪一族の宿命かも知れないな」と、断念の可能性を探っていたのかもしれない。 |
冬虫夏草に金色の輝きを見た |
漢民族の年始にあたる「春節」は、通常、2月末から3月始めに巡ってくる。その前後の2~3日は、市民を挙げて昼も夜も夜中も爆竹を鳴らし、ロケット花火を打ち上げてお祝い、いや、大騒ぎをする慣わしがある。 麗都花園は、大連市街地の北側を貫く黄河路に面した24階建ての古びたマンションである。その22階の裏通りに面した一室では、巷の喜びとは相反して苦悶の表情を浮かべる一人の男がいた。夜に昼にと絶え間なく続く破裂音に、もはやうんざりとしていたのである。 窓ガラスのすぐ外にも花火が飛んできて眼の前で弾け、パッと白い閃光が広がっていた。硝煙がたなびき、セピア色に染まった空を茫洋として見上げながら、頭の中では、走馬燈のように繰り返し過去の情景をなぞっていた。 何とか、何とか成功のヒントを掴みたい。集中しよう、集中してもう一度、冬虫夏草の真の心髄まで見透してみなければ、前に進まない。 ベッドに転がって窓に背を向けながら眼をつぶると、冬虫夏草を探し求めた頃の懐かしい台湾阿里山や中国の山々の風景が浮かんでは、通りすぎていた。 そうだったなあ、阿里山の深い谷の斜面で採取した見事な冬虫夏草の一株が頭に浮かんだ。分厚い枯草を静かに掻き分けると、ちょうどマッチ棒のような形状をしたオレンジ色のキノコの根元に、黒い腐葉土がもぐれ付いた昆虫の幼虫が付着していた。 さらに掘り進んでみると、白髪の毛のように長く伸びた菌糸は周辺に広がり、さらに瓦礫にまで入り込んでいるように見えた。 ということは・・・ 昆虫、腐葉土、そして瓦礫に含まれているミネラルや栄養成分が、強靱な冬虫夏草を育てるにために必要な栄養条件なのかも知れない。 だとすると、強い栄養成分をバランス良く組み合わすことで、強力な冬虫夏草が育つ、ということか。 そういえば相撲取りだってアスリートだって、みんなそうだ。数種類の栄養豊かな食材をバランスよく食べることが、強靱な身体と見事なパフォーマンスを生みだす要素となっている。 より強靱な昆虫とより栄養豊かな腐葉土、これにバランスに優れたミネラルを配合した培地を作成すれば、大自然のそれと同じように強靱な冬虫夏草が出現する可能性がある。 久方ぶりに冴えてきた頭脳は、台湾大地震を3ヶ月ほど前にさかのぼる6月、ちょうど川浪の誕生日に投宿していた遼寧省海城市の海城大酒店に忽然と現れた男のことを思い出した。 早朝のコールに起こされてエレベータを下りると、ロビーに立っていた老人。 中国人には珍しい銀髪と古っぽい紺色の人民服を着た小柄な男は「酒に漬けておいて、疲れた時に飲みなさい」と流暢な日本語を話しながら、シワシワのビニール袋に入った一掴みの異物を手渡してくれた。 出会ったこともない人である。そのままゴミ箱に放り込むことも考えたが、部屋に戻って袋を開けてよく見ると、何となく蟻に見える。 日本に帰ってホワイトリカーを買って、そのなかに入れ、2~3ヶ月ほど漬け込んで恐る恐る飲んでみた。 忘れもしない、あれは、台湾大地震の直前だった。コップの底の黒い液体。嗅いだこともない強烈な土っぽい香りが鼻孔を突いたが、興味の方が勝っていたので鼻をつまんで飲み込んだ。 その夜、辛かった座骨神経痛の痛みから解放されて、ぐっすりと眠ったような記憶が蘇える。 そうか、あの蟻が、まさしく噂に聞いた薬用蟻なんだな。 強い蟻とは、紛れもない強靱な昆虫。 そうか、薬用蟻から発芽する冬虫夏草というのも突飛だけど、まさしく当を得た組み合わせかもしれない。 薬用蟻で有名な長白山の「馬蟻」は自重の300倍という食餌を提げて巣まで帰ると聞いたことがあるし、体力減退、精力減退した老人が探し求めて食べるというほど中国では有名だ。 試してみようか、いや、試すより他に道がない。ひょっとすれば、これがゲームチェンジャーになるかも知れないから。 さっそく薬用蟻探しを始めた。しかしながらあの老人を探すことは、渤海に落としたスプーンを探すに等しく不可能に近い。 それに、もう時間がないのだから、のんびりと探すことだけを考えてはいけない。 それならば、中国で「凄い」と評判の高い蟻を数種類集めてみて、自分が食べてでもテストをしてみるしかないだろう。 食用菌協会で知り合った各地の朋友に連絡を入れて、集めてくれた蟻を粉にしてカプセルに詰め、手当たり次第に配って食べてもらう作戦に取り組んだ。 その中に、中国南西部で棲息する擬黒多刺蟻と呼ばれる極めて有名な薬用蟻があった。粉にしてカプセルに詰め、日本に飛んで友人知人に送りつけて経過を待った。 その一人、大分県の友人から連絡があったのは荷物を送った3日後の夕刻だった。 電話の向こうで「痛風で寝たきりの祖父ちゃんに食べさせた。起き上がって、外で植木の刈り込みを始めたよ」と、驚く声が弾んだ。 「すごい、よし、この蟻を使おう」 擬黒多刺蟻といえば、薬用蟻の中では超ブランド品だし、決断するのに時間は掛からなかった。 さっそく大連に帰って、蟻をどのように使うかの検討に入る。 蟻に直接、冬虫夏草の菌糸や組織を植えつけるのは至難の業だ。わずか体長6ミリ程度の蟻に組織を確実に植えつけるのは高等技術にほかならないし、手間もかかる。 ならば、たくさんの薬用蟻に冬虫夏草の菌糸を振り掛けるのはどうだろうか。蟻の硬い表皮を突き破って、菌糸が入り込む確率は低い。それなら、たくさんの薬用蟻を砕いて遠心分離し、硬い殻から搾り取った内液を使ってみようか。しかしながら、この方法だと1キロの薬用蟻から10ミリグラムの内液も搾れない。 そして辿り着いたのが(社外秘なので書けないが)・・・という方法である。 同時に進めたのが、冬虫夏草という菌種の選別である。研究はすでに前人未到の領域に入っていたから、誰も教えてくれないし参考になるような技術解説書も見当たらない。すべて自分たちでテストを繰り返しながら、前に進んでゆかねばならなかった。 川浪が抱いていた、基本的な不安・・ 「この菌株で正しいのだろうか?」というものである。 過去の試験の経過を整理すると、同じようにチョロチョロとした発芽でも、菌糸の伸長スピードとタイミングが違う種菌の問題が残る。 一つは植物性のみの栄養環境でも伸びる菌種、もう一つが、昆虫のみの栄養環境で伸びる菌種である。どうでも、外見は同じように見えても、菌株にはいろいろな種類が有るようだ。 この問題を明確に整理しなければ、成功することはない。研究はより複雑化したが、種菌毎にブロックを区分して行うこととなった。 急ごう、テストに要する時間はもう少ない。 抽出した薬用蟻成分と腐葉土に見立てた植物材料をベースに果物でPHを調整したケーキ状の培地を作り、数十個のシャーレーの上面に、冬虫夏草の組織を植えてみた。 これなら安易に効率よく作業できる。 その一群、薬用蟻ブロックの茶褐色の培地が白い菌糸で覆われた。1週間後、さらに2週間ほど経つと、培地表面がオレンジ色に染まって、おびただしい数の米粒を立てたような発芽を迎える。 驚いた、何だこれは。 菌糸の伸長がえらく早いぞ。 加油(がんばって)! そしてさらに2週間・・・ 川浪は、培地の表面に割箸の先ほどもある太い子実体がビッシリと成長してゆく光景をこの目で見た。 まさしく、暗闇で輝く金色の光・・ 摘み取って食べてみようと、努力の結晶を1本引き抜いて口に含み、そっと噛みしめてみた。冬虫夏草特有の甘い香りが口腔に広がり、ゴムのような強い弾力を感じた。 「やったぞ、大成功だ」 擬黒多刺蟻をベースにした、強靱な冬虫夏草が見事に育ちつつある。 これなら、2次培養でも3次培養でも活力が落ちることはない。大規模栽培に一歩近づいた、と確信したのは03年6月のことだった。 中国遼寧省の夏は過ごしやすい。日中の最高気温は30℃に達するものの、日陰に入ったり陽が落ちると、空気が乾燥しているからか、サラッとして気持ちがよい。 それでも冬虫夏草にとっては少し暑いようで、28℃を超えると活性が急速に低下してゆく。 急ごう、成功はすぐ目の前だ。 そして8月8日の立秋を境に、菌の活性は再び上昇する。またもや、より強靭さを増すための試作を繰り返す日々となった。 手持ちの資金は完全に底をついていて、あのセーフガードによって門司港から送り返された椎茸コンテナの輸送費も、大連港の通関費や冷蔵倉庫保管料も、取り扱ってくれた船会社(コンテナ輸送)に支払えない状況だった。仲が良かった公司総経理(社長)の李さんも「規則だから」と、裁判にかけて大連渓流公司の銀行口座を差し押さえることに、よって公司の業務は完全に閉塞状態に陥ってしまった。 開発に携わってくれたスタッフ3人の給料は、擬黒多刺蟻の粉をカプセルに詰めて日本で売り歩き現金を稼いで、それを公司に持って帰ってから社員たちに配るという綱渡りが続いた。 でも不思議なことに、辛さも苦しさも不安も消えていた。川浪のことを「お父さん」と呼ぶ社員たちは「心配しないで、私たちが大連空港で靴磨きしてでもお父さんを助けるから」と、励ましてくれていた。 その上に、最悪だった体調も、薬用蟻が効いたのか育った冬虫夏草をプチプチちぎって賞味したのが良かったのか、痛みも疼きも遠のいていた。わずか半年前までは身も心もボロボロだったのに、それが、薬用蟻を使った冬虫夏草のお陰で一気に夢と希望へと代わっていた。 「それにしても」と、川浪は考えていた。 50才の誕生日が明けた朝、ハイチャンダァチュウテン(海城大酒店)に蟻を持ってきてくれた老人。流暢な日本語を喋っていたから、ひょっとすると日本人なのかも知れない。 でも日本人の誰も、田舎町の海城市に川浪が泊まっているなど知るはずもない。 それに、あの汚い袋を「不好」と捨てていたらどうなってただろうか。 先ず言えるのが「今、ここにいない」ということ。 台湾大地震が起きた前日の昼の便で、何の躊躇もなく台湾に戻っていたに違いない。そして震源となった小さな村に朋友たちが集まって、日本や中国の旅話しを語りながら酒盛りをやっていたに違いない。 カンペイ、カンペイと言い交わしながら陳年紹興酒を十数本も酌み干した後に、レンガ造りの研究所の椅子や床に転がって爆睡していたに違いない。そしてあの煉瓦の2階建ては、日付が変わった午前1時すぎ、激震とともに瞬時に崩れ落ちた。 数人の男が、夢から覚める間もなく煉瓦に打ちつけられ、埋もれ、その上に決壊した川が濁流となって流れ込んでいただろう。 だがその時には、ずっと不運を重ねていた「運命の歯車」が、ギアチェンジしていたのもしれない。 蟻酒を飲んだその朝に、いつも太ももを拳で叩きながら空港に向かうのが慣わしだったが、その日は痛みもなく身体がとても軽くて「身体の中で何かが変わった」と感じたのだ。 たったこれだけの理由で、衝動的に、川浪は台北行きをキャンセルして大連行きのフライトに切り替え、夕方には大連の博覧大酒店に投宿していた。あの薬用蟻をくれた老人を探そうとして。 それだけではない。 大地震が転機となって、何かの力に引っ張られるように台湾から中国へと活動拠点を変えた。そして大プロジェクトに没頭したあげく大きな挫折を味わったが、そのどん底の底でもがきながら最終の一手として薬用蟻を試すこととなり、これが見事に成功へと導いてくれた。 想い起こしてみると、老人に薬用蟻を託された日を境にして、川浪の運命を操っていた巨大なシステムが、間違いなくギアチェンジしていたと思われる。 |
運命の糸を見せてくれた冬虫夏草 |
厳しい大連の冬が来て、冬虫夏草の試作はお休みとなったが、この間に多くの人に食べてもらって効能効果を確かめたり、食あたりなどのトラブルがないかを調査しておかねばならない。 川浪自身が半年以上も食べ続けているのだから悪い結果が出ないのは分かっていたが、やはり「絶対に問題がない」という揺るぎない自信と、数多くの体験録が欲しかった。 薬用蟻エキスをベースに冬虫夏草を育てるなんて世界で初めてのことだから、何が出てきても不思議ではないという一抹の不安はあった。 少しでも早くデータをまとめてPRして、輸入窓口や事業主体を決めなければならない。だけどそうした日本における活動には、ホテル代とか飛行機など、かなりの経費がかかるだろう。 しかし残念ながら、公司の手持ち資金はとっくに底をついていた。経費を捻出するには、日本にできていた代理店の数人に、薬用蟻のカプセルを売ってもらって小銭を集めるのが精一杯、他に方法はなかった。 そんな凍れる冬の朝、突然と、高校時代の同級生で親友だったF君から国際電話が入ってきた。 イベント業を営んでいるF君は「大手保険A社が代理店表彰式を北京の人民大会堂の小礼堂を借りてやりたいそうだ。JAL航空北京公司に頼んだが、半年経っても回答がないらしい。調べてもらえないか?」というのだ。 人民大会堂といえば全人代(国会)が開かれる、日本でいえば国会議事堂に匹敵する施設で、北京市政府が所有し管理する中国随右の施設である。 小礼堂とは、党幹部500人が国家の方針と全人代の運営を話し合う重要で内密な会議室で、その三階にある。そんな凄い場所を日本企業が使うなんて無理に決まってると思いながら、北京の朋友に連絡を入れてみた。 半日後だった、早々と北京から「北京政府が許可してくれた。何でも市長の李さんが、川浪先生のことを知ってるそうだ」との連絡なのである。 F君に伝えると「本当か?」と、信じられなかったようである。あの大手航空会社でも無理だったのに、何で小さな公司の川浪が、しかもわずか半日で「OK」がもらえるのかと言うのである。 北京では珍しく大雪が積もった、とても寒い日だった。北京飯店で落ち合った川浪と公司の助理(通訳)そしてF君は、タクシーを拾って人民大会堂へと向かう。 約束の時間、大会堂に登る階段には職員たちが2列縦隊に並んで敬礼をして、川浪たちはその列の間を恐縮しながら登った。 これは、最上級の客人に対する施設職員の儀礼なのだろう。 扉の前に、責任者の劉主任(所長)らしき若くて大柄な男が迎えに出ている。固い握手を交わした後に、中国13億人を掌握する国家中枢へと足を踏み入れた。 メーン階段の踊り場には国宝級の彫刻が並び、大餐店(大会堂大宴会場)では、大天井に燦然と輝く巨大な国花・牡丹をあしらった大オブジェに度肝を抜かれた。 小礼堂は、映画館のように緩やかな階段状のフロアに深紅のビロードを被せた椅子が配されており、高級感は抜群である。 この豪華さの中で、社の威信をかけた表彰式をするとは、さすが世界に冠たるA保険である。その上に、夕食は大餐店(大会堂大宴会場)で最上級のパーティをやりたいという希望だった。 なんと、料理はクリントン大統領が訪中の際に食べた同じメニューを所望。それに中国随一を誇る上海雑伎団の演技、看板役者を揃えた京劇の上演、二胡(胡弓)と西洋楽器の混成演奏で間を繋ぐのが希望だという。 さらにA社500人のゲストに酌をしたり料理を装う服務員が各テーブルに1人、通訳は同時通訳クラスを10人も用意すれば宜しいでしょう。 さらに大餐店の壁添いには、切り絵師や似顔絵師など中国で名工と賞される模擬店が並び、大会堂正面には「熱烈歓迎、A保険公司」の巨大な横断幕を掲げるようにしてほしい。 「これならどんなゲストをお呼びしても、満足してくれるに違いない」と、F君は胸を張った。 眼が飛び出るような贅沢な演出である。だが、劉主任は平然とした表情で「全て大丈夫ですよ、政府日程が空いている時期ならいつでも契約させてもらう」と確約してくれた。 「夢を見ているようで、信じがたい」と、大会堂の階段を下りながらF君は盛んに首をひねった。日本にいるときは超難題だと考えてたのに、ここに来てみると、何でもないことのように感じてしまう。こんなことって、有っていいのだろうかと。 「分かった、劉主任を夕食に呼ぼう。信じられるまで質問していいよ」 日本料理のテーブルを囲んで、劉主任と腹を割って話しができた。JAL公司からの申込みは届いていないことや、北京市長が前任のとき、中国食用菌協会で川浪の講演を聴いていたことなど、いろいろと話してくれて、ようやくF君の疑問は確信へと変わった。 劉主任が提示してくれた見積額は50万人民元、日本円換算すると750万円に達した。500人のゲストとA保険のスタッフ、それに川浪らのサポートも含めると1人当たりで12000円予算の超国際級パーティである。 その上に上海雑伎団の総員40人、その航空機往復代金とホテル宿泊代金、機材を運ぶトラック5台が往復、それに加えて京劇の出演料、舞台装置設営費用など、日本の常識から考えるとかなり安目の金額だといってもよい。 保険A社も即座に合意してくれて、大会堂側と川浪公司が契約し、川浪公司が保険A社代理人と契約する運びとなった。そして川浪は来るべき公演の打ち合わせのため、上海に飛ぶ。演目を視察したり日本人の好きそうなものを選別したり、プロデューサーと入念な打ち合わせを進めなければならないからだ。 劉主任からの連絡はすでに雑伎団に寄せられており、応対してくれたプロデューサーの周は「大餐店の公演はとても緊張します、失敗ができないから」と直立不動で応対してくれた。 その他にも、劉主任の手配は抜かりがなかった。 「大丈夫、全て確認した」と、早々にも成功を確信し、日程も5月7日に決まった。 記念すべき壮大なパーティーが中国国家の中枢で行われる。 ところが、良い方向に切り替わったと思われていた「運命」という歯車が、またまた瓦解の方向に柁を切ったかようである。思いもしなかったことが、深く静かに進んでいたのだ。 準備万端、残すところ2週間に迫った4月24日に、F君から暗い声で電話が入ってきた。思ってもみなかった「SARSが怖いから中止にしてほしい」という連絡である。 「SARSって何だ?」 中国大連にいる者にとって、中国国内で危険極まりないニュースは逆に入りにくい。だから突然と「SARSが怖い」といわれても、理解できなかった。 聞くところによると、SARSとはコロナウイルス感染による急性呼吸器疾患で、中国広州が感染源となって徐々に拡大しているという。日本ではもっぱら、このニュースで持ちきりだというのである。 「またもや瓦解が始まったか」 川浪の頭の中で、何かがバラバラと崩れ落ちてゆく。またしても行く手を遮ろうとする、眼に見えない巨大すぎる壁・・ 台湾プロジェクトも中国きのこ村構想も、さらにこの表彰式典も、どれもこれも同じように段取りを完璧に終わらせているのに、関与する仕事の全てが瞬時に崩壊してしまう。 「運命」に逆らわないようにと冬虫夏草の夢を実現させながら、親友の助けになればとの想いでやったことなのに。あれも駄目、これも駄目だというのは、あまりにも酷いじゃないか。誰とも付き合うなというのか、困った人がいても無視してしまう、そんな薄情な男になれというのか、川浪は天を仰いだ。 悔やんでばかりはいられなかった。精一杯の好意を示してくれた劉主任にキャンセルを伝えて、精算のお願いをしなければならない。 巨大な横断幕も発注しているだろうし、雑伎団も、川浪が打ち合わせしたとおりに大餐店の天井高に合わせた機械器具に改造してくれている。飛行機やホテルのキャンセル代、服務員たちのキャンセルフィーなど、すでに、かなりの費用がかかっていることだろう。 保険A社サイドの契約では、開催日より2週間を切った中止には違約金として契約額全額を頂戴するように取り決めていた。そしてまさしく、キャンセルの連絡が入ってきたのが、ちょうど2週間前。 契約違約なのか、それとも無償のキャンセルなのか微妙な日取りである。 危うい思惑が頭をかすめた・・・ 保険A社から「2週間に達してないから無償キャンセルが成立する」と指折り数えられ、劉主任からは「残り2週間を12時間ばかり周っているから清算する」という、最悪の展開になったらまずいな。台湾でも中国きのこ村でも、最後の最後に致命的な大損をした。そして今度も、また大損を被りそうな雰囲気なのである。 あれは、キャンセルの連絡を受けた日から3~4日経ったゴールデンウィークの直前だった。保険A社サイドから「キャンセルは私どもの要望だから、全額をお支払いする。中国政府の感情を害せぬよう、上手く対処して欲しい」との意向が寄せられた。 そして5月初旬、劉主任から、思ってもいなかった回答が返ってきた。 「SARSは中国が起こした問題。川浪先生には多大な迷惑を掛けた。よってキャンセルに掛かる代金は不要だ」というのである。 「いやいや、キャンセルフィーは保険会社が支払ってくれるので、私にとって何の負担もない」と言っても、劉主任は頑なに拒むのである。 そして数日後、北京に飛んで劉主任と面談。払う、要らないの押し問答が続いたが、結局、北京政府がキャンセル料の受領を正式に拒否したのである。 予定どおり開催していれば50万~75万円程度の薄い利益だったろうが、SARSのお陰で一挙に800万円近い大枚が転がり込んできた。契約を遵守してくれた保険A社にはまことに気の毒だったが、我が大連渓流公司はこれで息を吹き返した。 超高層ビルから眺めた日本の空 朝日が昇るように幸運が続いた。 川浪の研究や実績を知った食用菌協会の研究者たちが、続々と会いに来てくれて「日本にキノコ菌床を輸出したい」というのである。台湾でやってたようにシイタケ、タモギタケ、エリンギ、霊芝、キクラゲ、そして川浪が名づけ親となった「つくし茸」を輸出して、日本では川浪が栽培指導をするという得意とするビジネスだ。あっという間に毎月4~5コンテナを日本に運ぶほどに急成長して、米ドルが絶え間なく流れ込んできた。 社員も増やした。 手狭になった事務所を、大連で一番の目抜き通りである人民路、大連富麗華大酒店(フラマーホテル)の斜め向かいに建った白亜の超高層ビル、虹源大厦(ホンイェンターシャ)34階に移すことを決めた。 「冬虫夏草も見事に完成したし、キノコ菌床のビジネスも順調。この虹源大厦を起点として、日本まで大きな虹を架けよう。日本の皆さんにクイックで健康を届けたい」と社長室の全面ガラス張りの窓から、はるか日本の空を仰ぎ見た。 そしてその思いが通じたのか、日本の総代理を希望する大証・東証1部上場のE社と20万菌床、貿易総額6000万円に達するビッグビジネスが進んだのである。 川浪はSARSのさ中、東京に飛んで冬虫夏草の事業性、安全性、効能効果、栽培方法などを説明し、そして2004年1月、契約締結とともに着手金として2000万円余が大連の銀行口座に振り込まれたのである。 思い返せば1年前、自然界のように元気な冬虫夏草が出現しないことを嘆き、苦しみ、酒浸りになって身体を壊し、頭を強打して病院に担ぎ込まれていた。そして薬用蟻を思いついて、不思議なくらいに、あっという間に完全復活したのである。 手塩にかけた擬黒多刺蟻ベースの冬虫夏草20万菌床を日本に持って入ったのは、2004年3月30日だった。ちょうどその頃、もう一つの運命というべき巨大な歯車が、ゆっくりと始動していたのである。 |
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