冬虫夏草研究チーム
絶望 冬虫夏草はやはり神秘だった

大連空港からほど近い、甘井子区山東路の裏通りに建つマンションのB1階に研究室を設けて、来る日も来る日も、いろんな昆虫に子実体組織(胞子果)を植えつけるという発芽試験を繰り返した。
しかし、自然界とどこがどう違うのか何が悪いのか、髪の毛のように細い子実体がチョロチョロと伸びるものの、自然界で見つけたあのプリプリした元気いっぱいの冬虫夏草が育たないのである。
これでは自分で食べたい分も満足に出来ないのだから、台湾のころと何も変わらず、目指した大規模栽培など夢のまた夢である。
「やはり、人工栽培は無理なのか」との諦めが頭を過ぎって、次第に頭脳の構造が壊れていった。

昼間から、黄河路と新開路の交差点にそびえる珠江国際大厦1階の「肥牛しゃぶしゃぶ」で青唐辛子のピクルス(腌制绿辣椒)をつまみながらビールを煽り、部屋に帰って少し眠ると、夜は夜で人民路、海橋大酒店の日本料理店「大江戸」に行って、きんぴらゴボウを肴に焼酎を乾す生活が続く。
夢敗れ挫折を目前にした男の孤独な闘い。そして不満と不安が交錯して、不眠症が高じていた。
酔った勢いで一気に寝るのだが、ものの2~3時間もすると目覚めてしまう。そうなると、中医から「破裂寸前」と警告されていた胆嚢結石が疼いて、朝まで眠れない。
他にも、様々な病根があった。
頭と首の付け根にある神経鞘の損傷が原因という激しい偏頭痛、血圧の上が170で下が100を越え、驚くことに心拍数が平常時でも120に達した。頭髪が抜け落ち白髪が進む、乱視がすすんで文字が見えない。
鼻詰まりで寝られないからといって、まとめ買いしたルル点鼻薬を1週間に1本、胃が灼けるといっては太田胃散を毎食後2匙。
便秘と下痢の繰り返し、脚が抜けるほど痛む座骨神経痛に毎夜苦しんで、マンション近くの按摩店で癒す。
季節の変わり目に必ずといってよいほど風邪を引き、激しい気管支喘息に苦しんだ。そして最も苦しんだのが、漢方医が瘡(そう)と呼ぶ難病。
ゴルフボールほどの血膿の塊が顔面や耳たぶ、脇下などに吹き出て次第に体内へと移り、腹膜や胸膜にも転移する。内臓に病根があるというこの病気、切っても切っても直ぐに体のどこかで血膿が膨らむというやっかいな病だ。
・・・最近の話しになるのだが、テレビドラマで高い視聴率を上げた韓国ドラマ「チャングムの誓い」で、その朝鮮李王がこの病にかかりチャングムに冬虫夏草を見つけさせたがその時はもう手遅れ、苦しみながら他界したというストーリーが見どころだったあの病気。そんな病根が、川浪の体内にふつふつと芽生えていた。

最大のピンチが訪れた、あれは2月になったばかりの寒い朝のこと。朝食に立ち寄った快餐店(ファーストフード)入口の階段で、突然と身体が反り返るほどの激しい目眩に襲われた。
凍てついた石の階段に激しく頭から突っ込んだ川浪は、遠のいてゆく意識の中で「激しく頭を打った、死なないで」と慌てふためく叫び声を聞きながら、頭の痺れとともに暗い奈落の底へと落ちていった。

ついに金色の光を見た  

中国の正月となる春節は、黄河路のマンションで迎えた。快餐店の階段で打った傷というよりも首の骨が激しく痛んだが、不幸中の幸いというか、脳内出血も頭蓋骨の挫傷も頸骨の損傷もなく「脳震とう、腎虚が原因の目眩(めまい)」だと診断された。
だが、ここで寝てても身体が良くなるわけではないし、冬虫夏草も上手くは育ってはくれない。春節が明ければ氷も緩んで、春の陽気とともに冬虫夏草の菌糸にも勢いが戻ってくる。何とか頑張って体力と気力を回復させなければ、そして今度こそ成功させなければ、もう後がない。次の寒い冬が訪れると、成功がまた1年延びてしまう。だから、仕事になるのは残すところあと半年。それから先は資金も底をついてしまうし、この体では再起も望めないだろう。
「大陸乞食」という4文字が浮かんでは消えた。
チャイニーズ・ドリームを夢見て中国に進出して、失敗に失敗を重ねながら広い中国を彷徨う外国人浮浪者(中国人から見た)のことである。
「この地で果てるのは川浪一族の宿命かも知れないな」と、心中では断念の可能性を探っていた。
中国大連の住み家、麗都花園22階の窓のすぐ外で春節を祝う打ち上げ花火が炸裂して、白い閃光が目を射た。
昼だというのに絶え間なく弾ける爆竹の炸裂音と、硝煙がたなびくセピア色に染まった空を見上げながら、川浪は必死に想い出をなぞってみた。
何とか、何とか成功のヒントを掴みたい。集中しよう、集中してもう一度、冬虫夏草の真の心髄まで見透してみなければなるまい。
・・・眼をつぶると、自然界で冬虫夏草を探し求めた懐かしい台湾阿里山や中国大自然の風景が走馬燈のように写り過ぎていた。
続いて、阿里山の深い谷の急斜面で採取した見事な冬虫夏草の一株が現れた。照葉樹林の分厚い枯葉を掻き分けると、黒褐色の爪楊枝のようなキノコの根元に腐葉土にもぐれた昆虫が付着し、さらに掘り進んでみると菌糸は広く腐葉土に広がり、その下の瓦礫にまでくい込んでいるようである。
ということは昆虫と腐葉土と瓦礫のミネラルが、強靱な冬虫夏草を育てるにために必要なのかも知れない。
強い栄養成分をバランス良く組み合わせれば、必ずや強力な冬虫夏草が育つはず。
アスリートだってそうだ。いろんな食材をバランスよく食べることが、強靱な身体と見事なパフォーマンスを生みだす。
そうかッ、より強力な昆虫と栄養豊かな腐葉土、そしてバランス良いミネラルを含有する培地を作成すれば、より強靱な冬虫夏草が出現するはずだ。

久方ぶりに冴えた頭脳は、台湾大地震より3ヶ月さかのぼった6月20日、ちょうど川浪の誕生日に宿泊していた遼寧省の海城大酒店に、こつ然と現れた老人のことを思い出していた。ボロボロのビニール袋に入った一掴み(つかみ)の蟻を渡してくれた、その男。
中国では珍しい銀髪と、古くさい紺色の人民服を着けた初老の男は「酒に漬けて、疲れた時に飲みなさい」と、流暢な日本語で言い残すと風のように去って行った。
日本に帰ってその蟻をホワイトリカーに浸けて、2ヶ月ほどして恐る恐る飲んでみた。
忘れもしない、台湾大地震2日前の9月19日の夜だった。
嗅いだこともない強烈な土っぽい香りが鼻孔を突き抜け、そして暫くすると、あれほど辛かった座骨神経痛の痛みから解放されて、ぐっすりと眠った記憶が蘇える。
そうだった、あの蟻はまさしく噂に聞いた薬用蟻なのだろうか。しかし、あの男は誰なんだろう、あの男を捜しだして蟻の産地を教えてもらいたい。あの蟻を使ってみたら、冬虫夏草も元気に育ってくれるかもしれない。

老人とあの蟻探しが始まったが、広い中国であの男を見つけることは東シナ海に落としたピンを探すに等しく、不可能に近い。もう時間がないのだから、探すことだけを考えてはいけないし、ならば「凄い」と評判の蟻を集められるだけ集めて、自分が食べてでもテストをしてみるしかない。

中国食用菌協会で知り合った各地の朋友に連絡を入れて、集めた蟻を粉にしてカプセルに詰め、手当たり次第に配って食べてもらう作戦に取り組んだ。
その中に「擬黒多刺蟻」という、漢方医の間では極めて有名な薬用蟻があった。数種類を取り寄せ、日本の友人知人を訪ねては配って歩いた。
その一人、大分の友人から連絡があったのは、手渡して翌日の夕刻のことである。電話の向こうで「痛風で寝たきりの祖父ちゃんに食べさせた。今、起き上がって、外で植木の刈り込みを始めてる」と、驚きの声がした。
この蟻を使おう。擬黒多刺蟻という薬用蟻としての評判と自分で試してみた結果、そして大分の友人からの連絡で、決断するのに時間は掛からなかった。
早速、蟻をどのように使うかの検討に入る。
しかし、蟻に直接、冬虫夏草の組織を植えつけるのは至難の業である。わずか体長6ミリ程度の蟻に、冬虫夏草の組織を確実に植えつけるのは高等技術にほかならないし手間もかかる。ならば、たくさんの薬用蟻に冬虫夏草の菌糸を振り掛けるのはどうだろう。蟻の硬い表皮を突き破って、菌糸が入り込む確率は低い。それなら、たくさんの薬用蟻を砕いて硬い表皮を遠心分離し、搾り取った体液を使ってみるか。
ところが、この方法だと1キロの薬用蟻から10ミリグラムの体液も搾れない。そして辿り着いたのが(社外秘なので書けない)・・・という方法である。
こうして抽出した薬用蟻体液と腐葉土に見立てた植物材料をベースに培地を作り、果物でPHを調整して培地を作り、その上面に冬虫夏草の組織を植えてみた。
これなら安易に効率よく作業できる。
1週間で濃い褐色だった培地は白い菌糸で覆われ、さらに3週間ほど経つと培地表面がオレンジ色に染まってきて、おびただしい数の発芽を迎える兆候が現れた。
「何だこれは、菌糸の広がりがえらく早い、加油(がんばって)!」
さらに2週間・・・
川浪は、培地の表面に割箸の先ほどもある太い子実体がビッシリと密集する光景をこの目で見た。
「まさしく、金色の光だ・・・」
摘み取って食べてみよう。努力の結晶を1本抜いて口に含み、そっと噛みしめた。冬虫夏草特有の甘い香りが口腔に広がり、ゴムのような強い弾力を感じた。
「大成功だ」
擬黒多刺蟻をベースにした、強靱な冬虫夏草が見事に育ちつつあった。これなら2次培養でも3次培養しても劣性株が少なくて、活力だって落ちることはない。
大規模栽培が可能だと確信したのは、2002年6月のことだった。

遼寧省の夏は過ごしやすい。
日中の最高気温は30℃に達するものの、日陰に入ったり陽が落ちると、空気が乾燥しているのでサラッとして気持ちがよくなる。
しかし冬虫夏草にとっては少し暑いようで、28℃以上になると活性が急速に低下した。
8月8日の立秋を境に菌の活性は再び上昇、またもや、より強度を増すための試行錯誤と試作を繰り返す日々となる。手持ちの資金は完全に底をついて、あのセーフガードで日本から送り返された椎茸コンテナの輸送費、大連港通関費や冷蔵倉庫保管料も、取り扱ってくれた船会社に支払えない状況に陥っていた。仲が良かった総経理(社長)の李さんも「公司の規則だから」と、裁判で大連渓流公司の銀行口座を差し押さえ、公司の業務は完全に閉塞状態に陥ってしまった。開発に携わっていたスタッフ3人の給料は、日本で擬黒多刺蟻の粉をカプセルに詰めて売り歩いて現金を稼ぎ、大連に帰ってから社員たちに払うといった綱渡りの日々だった。
でも不思議なことに、川浪には辛さも不安も消えていた。川浪のことを「お父さん」と呼ぶ社員たちは「心配しないで、私たちが大連空港で靴磨きしてでもお父さんを助けるから」と、励ましてくれた。
あの最悪だった体調も、薬用蟻が効いたのか育った冬虫夏草をプチプチちぎって賞味したのが良かったのか、痛みも疼きも遠のいているような気がした。わずか半年前までは苦しんで苦しんで身も心もボロボロだったのに、それが薬用蟻を使った冬虫夏草のお陰で、一気に夢と希望に代わっていた。

「それにしても・・・」と、川浪は想い出す。
50才の誕生日の翌朝、ハイチャン(海城)大酒店に蟻を持ってきたあの男、中国人にしては珍しい銀髪と流暢な日本語を喋っていた。ひょっとすると、日本人なのかも知れない。
でも日本人の誰も、海城に川浪が泊まっていることなど知ってはいない。
もしもあの汚い袋を見て「脏的(きたない)」と、捨てていたらどうだろうか、間違いなくあの台湾大地震が起きた日に台湾に向かっていただろう。
昼過ぎに桃園蒋介石国際空港について迎えてくれる張英敏の車に乗って、培養施設のある阿里山に戻っていただろう。久しぶりに阿里山に戻る川浪に会いに、研究所に朋友たちが集まって日本や中国の旅話しを語りながら、いつものように酒盛りをやっていたに違いない。みんなで陳年紹興酒を数十本も空けて、二階の床に転がって熟睡していただろう。
そして午前1時すぎ、激震とともに瞬時にして研究所は崩れ落ちた。
ところが川浪は、あの蟻、いや、あの老人を探そうとして中国にいた。そのお陰で命拾いした・・・
そして、強い運命に流されるように台湾から中国へ。
中国でもまた思いもしない大きな挫折を味わい、どん底のさ中で最後の最後に薬用蟻を思い出して、それが成功へとつながった。
思い起こしてみると、あの銀髪の男に蟻を渡された日を境に、運命を動かす巨大すぎるギアが、切り替わったような気がしてならない。

強い運命を感じだした 
 
厳しい大連の冬が来て、冬虫夏草の試作はお休みとなったがこの間に、多くの人に食べてもらって食事効果を確かめたり、食べた後にトラブルがないかなどを調査しておかねばならない。
川浪自身が半年以上も食べ続けているのだから、悪い結果が出ないのは分かっていたが、やはり完璧に問題点がないという揺るぎない自信と多くの体験録が欲しかった。
薬用蟻のエキスを基に冬虫夏草を育てたなんて、これまで、世界中の誰もがやってなかったことだから、川浪にとっても「何が出てきても不思議ではない」という少なからず不安があった。
少しでも早く、データをまとめて日本でPRして、輸入窓口や事業主体を決めなければならない。どれもこれも資金がかかることだけど、もう資金は底をついていて、日本の友人頼みで蟻を売ってもらって小銭を集めるのが精一杯となっていた。

そんな凍れる冬の朝、突然と、高校時代の同級生で親友のF君から国際電話が入った。
イベント業を営んでいるF君は「大手保険A社が代理店表彰式を北京の人民大会堂小礼堂でやりたいそうだ。JAL航空北京公司に頼んだが、半年経っても回答がない。どうだろうか?」というのだ。
人民大会堂といえば全人代(国会)が開かれる、日本でいえば国会議事堂に匹敵する施設で、北京市政府が所有し管理する中国随一の施設である。
その3階にある小礼堂とは、共産党幹部500人が国家の方針と全人代の運営方法を話し合う重要な会議室だ。
そんな凄い場所を日本人が使うなんて、無理に決まってると思いながら、北京の朋友に連絡を入れてみた。
その4時間後、早くも北京から「北京市政府が了解してくれた。何でも市長の李さんが川浪先生のことを知ってるそうだ」という連絡が入ったのである。
F君に伝えると、信じられなかったようである。
「あの大手のJALでもだめなのに、何でわずか半日でOKがもらえるのか?」と言うのである。

北京では珍しい大雪が降った、その明くる日の寒い日だった。北京大飯店で落ち合った川浪とF君は、タクシーを拾って人民大会堂へと向かった。
約束の時間、大会堂に上がる階段には職員たちが2列に並んで敬礼をして、川浪たちはその列の間を登った。
最上級の客人に対する、政府職員の儀礼なのだろう。仰ぎ見ると、入口扉の前に責任者の劉主任らしき大男が迎えに出ている。
固い握手を交わした後に川浪たちは、中国13億人を把握するという国家中枢へと足を踏み入れた。
メーン階段の踊り場には国宝級の彫刻が並び、大餐店(大会堂大宴会場)では大天井に燦然と輝く巨大な国花、牡丹をあしらった大オブジェに度肝を抜かれた。
小礼堂は映画館のように階段状のフロアに、深紅のビロードを被せた椅子が配されており、高級感は抜群だった。
これら中国随一の豪華さの中で、威信をかけた最大級の表彰式をするとは、さすが世界に冠たるA保険である。
「夕食は大餐店(大会堂大宴会場)で雑伎団の演技を見ながら最上級のパーティをやりたい」という希望である。クリントン大統領が訪中の際に食べた同じメニュー、中国随一を誇る上海雑伎団の演技、看板役者を揃えた京劇、二胡(胡弓)と西洋楽器の混成演奏で間を繋ぐ。500人のゲストに酌をしたり料理を装うホステスが約100人、通訳は20人も用意すれば宜しいでしょう。
さらに、大餐店の壁添いには切り絵師や似顔絵師など中国で名人と称される模擬店が並び、大会堂正面には「熱烈歓迎、Aflac保险公司」の巨大な横断幕を掲げよう。
これならどんなゲストも満足するに違いないというのだ。
目が飛び出るような贅沢な演出である。
だが劉氏からは、即座に「全てOK、政府日程が空いている時期ならいつでも契約させてもらう」との回答。
「夢を見ているようで、信じがたい」
人民大会堂の階段を下りながら、F君はまだ迷っていた。
「分かった、劉さんを夕食に呼ぼう。信じられるまで質問していいよ」
気持ちよく招待に応じてくれた劉さんを交えて日本料理を食べながら大いに語って、F君の疑念はようやく確信に変わった。

劉氏が提示した見積額は、800万円に達した。
500人のゲストとA保険のスタッフ80人、我々のサポートも含めると600人だから1人当たり12,000円。日本の相場から考えると、かなり安い金額である。
大会堂側と川浪の公司が契約し、公司が保険A社代理人と契約することとなった。
5月初旬には壮大なパーティーが、中国の中枢である人民大会堂で行われるという運びとなった。
準備万端、残すところ10日を切った日に、F君から電話が入って「SARSが怖いから中止にしてほしい」というのである。
契約では、2週間以内の中止にはキャンセル料として契約額100%を頂戴するようになっていた。
「もちろん保険会社の要望だから100%お支払いする。中国政府の感情を害せぬよう、上手く対処して欲しい」というA社からの要請だった。
川浪は早速、劉氏に電話して中断を要請した。
「違約金を払う、計算してほしい」
ところがである、劉氏からは思いもかけない返事が返ってきた。
「SARSは中国が起こした問題。川浪先生には大きな迷惑を掛けた。よって違約金は不要だ」というのである。
「いやいや、違約金は保険会社から貰うので問題ない」と言っても、劉氏は頑なに拒むのである。
数日後、北京に飛んだ川浪は劉氏と面談。
払う、要らないの押し問答が続いたが、結局、北京政府が違約金の受領を正式に拒否したのである。
実際に開催していれば50万円程度の薄い利益だったろうが、SARSのお陰で一挙に800万円もの利益が転がり込んできた。
保険A社には気の毒ではあるが、川浪の公司はこれで息を吹き返したのである。
まるで朝日が昇るように、幸運が続いた。
次々と、台湾でやっていたようなキノコ菌床を製造する商談が寄せられた。
シイタケ、タモギタケ、エリンギ、霊芝、キクラゲ、そして川浪が名づけ親となった「つくし茸」の輸出が次々に決まった。
川浪の得意とするビジネス、中国ではキノコ菌の選定と教育、日本に飛んでは栽培指導と販売戦略。そしてあっという間に毎週4~5コンテナを日本に運ぶほどになって、ドルが面白いほど流れ込んできた。
社員も増えた。
新しい事務所を大連の目抜き通りである人民路、フラマーホテル(大連富麗華大酒店)の斜め向かいの白亜の超高層ビル・虹源大厦の38階に移した。
川浪は「冬虫夏草も見事に完成したし、キノコ菌床も順調になってきた。このビルから日本まで大きな虹を架けて日本の皆さんに健康を届けてゆきたい」と、全面ガラス張りの社長室の窓から日本の空を仰ぎ見た。
ただ、台湾のように、椎茸セーフガードのように、成功だと思った矢先に訪れる「大どんでん返し」には、充分に注意していた。
「あくまでも冬虫夏草を広めるために、癌で苦しんでいる人々に希望を与えるために・・・」
キノコ菌床も生分解プラスチック(トウモロコシからプラスチックを作る技術)も、全てが冬虫夏草の普及にためだと心で念じた。
そしてその思いが通じたのか、日本の輸入総代理を希望する大証・東証1部上場の会社と、20万培養基(冬虫夏草を発生させるボトル)という冬虫夏草の大規模栽培契約が正式に決まった。

手塩にかけた擬黒多刺蟻ベースの冬虫夏草を日本に持って入ったのは、2003年3月30日である。
ちょうどその頃、もう一つの、運命的な出会いが芽吹いていた。
中国国際航空の大連/福岡便に乗って福岡空港にたどり着いた川浪は、通関に進む長い通路で淡い紺のジーンズ上下を着た20歳前半の女の子が座り込んで泣いているのに出くわした。
「怎么了?」
「青島から来た。分からない」と、ただ泣きじゃくるのである。
結局、通関まで案内してあげてから「何かあったら、ここに連絡しなさいね」と、名刺を手渡して別れた。
・・・それからほぼ半年になるだろう。
川浪が成田空港に着いて東京に迎う電車の中で、突然と1本のショートメールが入って来た。
「私は日本語が出来るようになりました!」
思い出すのに時間がかかったが、福岡空港で出会った女の子以外は思い当たらなかった。
「日本語の訓練のため、メールをしても良いですか?」
それから、メールのやり取りが始まった。
「今、起きた」から1日が始まって「昼ご飯は食べた?」から「お休みなさい」まで、毎日事細かに連絡してきた。
そんなやり取りがほぼ半年ほど経っただろうか、いつの間にか女の子は川浪のことを「父ちゃん」と呼んで、川浪は「虹(ほん)ちゃん」と呼ぶようになっていた。
そして、福岡から大連に飛び立つ際には一緒に夕食をする友だち、いや、父と子になっていた。
ほんちゃんの大学入試が始まった。
「父ちゃんの仕事を手伝いたいから農学部に入るよ」と言って九州大学を受験し、そして見事に合格した。
中国大連の虹源大厦から架けた大きな虹は、それは虹(ほん)ちゃんだったのか、と川浪はビリビリ来るような運命を感じていた。
そして「可愛いし優しいし賢い子だ、こんな子供がいたらいいなあ」と、心から思うようになっていた。

日本に冬虫夏草を持ち込んで、そろそろ丸2年がくる。
実証試験も大成功したし、新聞などで報道されるようになってきた。
これから冬虫夏草を大々的に普及させるには、自前の販売組織を日本で立ち上げねばならない。
川浪は東京品川にオフィスを開いて、日本法人を立ち上げる決断をした。
東京に住もう、そして日本から癌を無くすために全力を尽くして働こうと考えていた。
決断すると直ぐに大連に飛んで帰り、住んでいた中山区五一路のマンションを解約して大連駅前の九州大飯店に居を移した。
ところがである。
その数日後、静まっていた運命の歯車が、また大きく動き始めた。
2005年3月20日、九州大飯店2階のレストランで朝食をとっていたときだった。福岡から観光に来たと思われるグループから「何だと!」という、絶叫にも似たざわめきが起きた。
「福岡市が大地震だ!」
弾かれるように、川浪は携帯電話をつかんだ。
その相手は勿論、ほんちゃん・・・
しかし、何度かけても電話がつながらない。
2400人が落命し、川浪のビジネスと夢を一瞬にして打ち砕いた、あの台湾大地震の生々しい記憶が鮮明に蘇って、あの夜と同じように胸騒ぎが始まった。
ほんちゃんの身に何かあったのだろうか・・・
そして、神を恨んだ。
「冬虫夏草をこんなに必死にやってるのに、何で幸せを奪おうとするのか。またもや大地震を引き起こして、日本の夢までぶち壊そうなんて。俺に恨みでもあるのか」と。
心配と不安と神への猛烈な不信が交錯した眠れない夜が明けて、ほんちゃんと連絡がとれたのは朝の10時だった。
「父ちゃん、アパートが壊れた。ドアが閉まらないし鍵がかからないよ。水道が出ないから風呂もトイレも出来ない。苦しいよ、怖いよ」と、異国の地の災難に意気消沈して泣きじゃくった。
「分かった、直ぐに福岡に飛ぶから」
タクシーに飛び乗って、11時40分発の福岡行きに乗り込んだ。
・・・福岡に着くなり、怪我のないほんちゃんを確認した。
そして、寝ぐら確保の為にホテルを2室予約した。
「ほんちゃん、立地の好いマンションを見つけるまでホテルで暮らそうね」
「父ちゃんと一緒だったら、何処でも構わないよ」
それから1ヶ月あまり、ごく自然に2人の想いが1つになって何の抵抗もなく、ほんちゃんと川浪は一つ屋根の下で暮らすようになった。
その日は4月26日、川浪と一緒に住むことを知らないほんちゃんの母親が、運勢を計算して「将来、幸せになる転居日は4月26日しかない」と、強く言い張ったからである。奇しくもその日は、ガンで他界した父親の命日だった。
川浪は32才も歳の離れた大学1年生と結婚し、そして子供にも恵まれ、家族に囲まれる楽しい生活を送ることとなる。
大地震でぶっ壊された台湾の夢、そして、大地震で手にした素晴らしい新生活。
これも神のなせることなのか、はたまた、何らかの極めて強い力が川浪の運命を操っているとしか思えない。
「冬虫夏草から離れれば地獄、冬虫夏草とともに進めば極楽」という運命の道筋が、より鮮明になってきた。

20年にしてリベンジが始まる
 
日本で栽培が始まって今年で足掛け14年、この間、冬虫夏草150万菌床を日本に導入して栽培を成功させるという、豊富な経験と実績を誇る。
あれほど壊れていた身体も、冬虫夏草の子実体を毎日のようにつまんで食べたせいなのか、どこも悪くなかった。
JR品川駅の近くに開いていた東京事務所を福岡市に移して、屈指の名勝・大濠公園の直ぐ近くに事務所を構え、冬虫夏草の普及と栽培指導のために株式会社BGサイエンスを設立、万全の栽培支援体制を構築することができた。
冬虫夏草の培養栽培については特許権を取得するに到って、栽培者の権利を先々保護する態勢も備わった。
蟻の冬虫夏草に加えて、新種改良にも着手した。
きっかけは、保険診療をしない医療機関からの問い合わせである。
「蟻の冬虫夏草より、もっと強力な抗癌活性を持つ冬虫夏草ができないだろうか?」
もとより、川浪の目的は「癌に打ち勝つ何か」を見つけることにあったので、一も二もなく、この誘いに応じることとなる。
薬用蟻を使う前に、何度もトライして失敗していたカイコの蛹(サナギ)から発生させる冬虫夏草。
カイコには驚くべきパワーがあった。
卵からサナギを作る2ヶ月の間に、何と、重量が2000倍になるという。しかも、4回も繰り返す脱皮の前には食べないのだから、食べられるときに猛烈に食べていることになる。人間など哺乳動物と比較すると、まことに怖ろしき消化能力と代謝のパワーが備わる。
その根源は、想像を絶する凄いパワーを持つ酵素だろう。
そのうえに、イモムシからサナギになってわずか数日で、まるで姿形が変わってしまう。サナギの中の強烈な酵素によってイモムシ細胞がアポトーシス(システムに沿った細胞崩壊)し、続いてタンパク生成酵素が超速正確に溶けたイモムシ細胞を蝶の細胞に作り替えるのだろう。
この天賦の秘術ともいうべき機序を冬虫夏草に取り込めば、食べることによって癌細胞はアポトーシスして、正常細胞が一気に回復するはずだ。そうなれば、かつて誰もが想像したこともないような、癌に対する自然療法が実現する。
もっと改良しよう、薬用蟻と同じように、より強いカイコを探し求め、同じようにカイコの成分を生薬などと調合して冬虫夏草の培地を創る。この仮説をもとにして、野蚕(ある地方の天然カイコ)を栄養源にした培養基が完成した。
結果は上々だった。
依頼のあった医療機関も驚き、1億円分注文したいと申し出てくれて、700kgの新種冬虫夏草を提供した。さらに、肝臓ガン細胞増殖阻害試験では驚異的な測定値をはじき出し、また、実際にこれを食べた肝臓癌の女性の癌細胞が3ヶ月後に消えた。
これだけパワーが上がれば大丈夫だ。今や、癌にリベンジする用意がととのった。
川浪には、絶体にやらなければならない義務がある。その1つが、何故に冬虫夏草が凄いのかという科学的解明である。これを知るには、癌を研究して人体のメカニズムを知ることが第一である。
大連の凍てつく階段で昏倒して以来、冬虫夏草の培養に苦心していた折り、痛む身体をさすりながら、何度もチャレンジした漢方医学。黄帝内経を紐どこうとして簡体文と睨めっこをしたものの、巨壁が立ちはだかる思いがして断念。
そして冬虫夏草の普及が日本で始まった2004年、2005年と、立てつづけに代金不払いや横領という事件に遭遇する。億を超す未回収金が発生して、自社貿易を断念する羽目になる。
新婚早々のことである。
「50の手習い」ともいうが、50才を過ぎてパソコンを独学して冬虫夏草ホームページを立ち上げ公開した。そして、有り余る時間を活かすためにチャレンジしたのが癌発症のメカニズムである。
漢方医の家系である大学生のほんちゃんとも、日々20時間近く、身体の仕組みについて研究し話し合った。そして、いわば二人三脚で独自の医学が完成した。
その理論は「食事と腸内細菌を基本に考えれば、身体の全てが見えてくる」というシンプルなものである。
癌は食事が悪化(食品添加物・好き嫌い)して腸内細菌が衰退することから発症する、という考えが基本である。
そして義務の第2が、家族への愛を貫くこと。
「子供が22才になるまでは絶体に元気でいる。子供たちが立派に育ってくれるまでは、もちろん現役で、高みを目指して向上し続けねばならない」と。
川浪は「100才現役」という、大きな目標を立てた。
これを実現するには、己が開いた療法の道を進んで、多くの人々にこれを教え伝える必要がある。
「癌に打ち勝つ何かを見つける」という父親との誓いから20年を経た今日、ようやくリベンジが始まった。
冬虫夏草が有する強力なパワーなのか、それとも、癌に楽しみを奪われた父親の執念が強い糸となって川浪の運命を操り、そして多くの癌患者を救おうとしているのか。
まさしく、世界から癌を追放する運動が始まった。
つづいて川浪は、過疎地の振興と健康保持にも目を向けた。
その総集編となる「金色に輝く過疎地を築く」プロジェクトがスタートしたのが2013年。
過疎地で栽培する冬虫夏草(NKゴールド)が地域住民の健康をサポートしながら健康産業を創造するという地産地消型が、好評をはくしている。
6次化補助金事業として2013年に熊本県天草市(1300年前に楊貴妃が唐の戦乱を逃れて天草に流れ着き、島民の流行り病を冬虫夏草で癒したという天草楊貴妃伝説が有る)から始まったプロジェクト、翌14年には宮崎市、宮崎県都城市、大分日田市などで次々と始まって、地域ぐるみの活発な展開を見せつつある。
同時にスタートしたのが食事革命
川浪が理事長となって設立した(社)日本自然療法協会が推進するビッグ・プロジェクトだ。
冬虫夏草の先端胞子果部分を、抗癌剤が使えない、手術ができない患者を対象に無料供給するというもの。
総額5000万円におよぶ大規模キャンペーンである。
必ずや、癌にリベンジする。
川浪は固い決意を以て毎日を邁進する。

             
ー完ー 
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20年にして始まった冬虫夏草で癌にリベンジ
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